アロンソを間違えた。問題の答じゃなくて先生のことだよ。
2016年3月に発表された()にこんな文章があります(下線は私がほどこしました)。ちょっと気になる点があるので、以前書いた書き込みを少々手直しして再度アップします。
「これからの時代に向けた教育改革を進めるに当たり、身に付けるべき力として特に重視すべきは、(1)十分な知識・技能、(2)それらを基盤にして答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく思考力・判断力・表現力等の能力、そして(3)これらの基になる主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度である。これからの教育は、この(1)~(3)(これらを本「最終報告」において「学力の3要素」と呼ぶ。)の全てを一人一人の学習者が身に付け、予見の困難な時代に、多様な人々と学び、働きながら、主体的に人生を切り開いていく力を育てるものにならなければならない。このことは、今後、大学も含めた我が国の学校全体が、社会人や留学生も含めた多様な背景を持つ人々が集い、学ぶ場として発展していく上でも不可欠な課題である。 」(pp.3-4)
「協同」や「共同」の漢字があてられることもあります。最近「協働的な学び」がよく言及されます。これ自体は望ましいことだと思っています。
なぜかというと、旧来の学校教育・授業は、多少極端な言い方をすると、一対一の関係が同時に複数行われているというものだったからです。集団(学級)で行われるけれども、特に生徒間の双方向コミュニケーションが欠けていました(います)。言い換えると、特に中等教育以降において、基本的に教師または教科書と生徒個人という一対一の関係で知識の伝達が行われており、しかもテストや受験が重視されるなか、生徒間の競争が基本原理に長らくなっていたということです。このような教授・学習方式は、第一に学習効率の点から、さらに第二に(民主主義)社会に生きる人間の育成という観点から、問題があると思います。(この辺の問題は、グループ活動をかなり多く取り入れている小学校の段階では回避されているように思います。)
単なる読み書きの勉強や知識の伝達は無味乾燥で、生徒を学習に向けて動機付けないという反省に立ち、これを修正する方法として、遊びの要素を取り入れた教育は古くからあります。けれども、これも個人をベースにした遊び(例えばモンテッソーリ法)と、社会的な遊び(仲間との協同)を重視する(例えばジョン・デューイの方法)ものとがあります。
近年では、例えばネル・ノディングスの「ケアの倫理」やエリオット・アロンソンの「ジグソー・クラスルーム(ジグソー法)」などが、個人ベースの学習や競争原理に対する批判として注目されています。また日本でも、佐藤学がデューイやヴィゴツキーの理論を応用して「学びの共同体」ということを唱えており、注目を集めると同時に成果も上げています。
その佐藤学は『カリキュラム・イノベーション: 新しい学びの創造へ向けて』(東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会, 2015)に寄せた論考で、黒板を前にして教師が生徒に説明する伝統的なタイプの授業は世界的に衰退の方向にあり、生徒主体の活動や生徒同士の協同を中心とした授業に変わりつつあるなかで、日本はかなり遅れていると指摘しています。
繰り返しますが、このような「協働」重視の方向性は良いことだと思います。
ただし、ここで一言。
みんなで協力して、楽しく学ぶことはいいですが、一人になって(集団から離れて)静かに何かをしたり考えたりする時間と空間も同時に確保してほしいと思います。
ずっと以前、森毅の「不健康のままで生きさせてよ」という文章を読みました(『高校生のための批評入門』筑摩書房:ちくま学芸文庫から再刊されています)。これは彼が子どもの頃、軍国主義の世の中で、みんな健康・みんな普通を強要された時代の雰囲気に狭量さを感じ取ったことを思い出し、「普通」から外れる者を許容する自由や余裕の大切さを訴えた文章です。いくつか引用しておきます:
ほんとのところ、「健康」という概念が、ぼくにはあまり理解できていない。やせすぎず、ふとりすぎずとか、血圧は高からず、低からずとか、からだ中のあらゆる機能が、すべてにわたって「正常」であるというのが、ひどく奇妙な気がするのだ。どちらかの方向に逸脱しても、その形で生きていて、なぜ悪いのだろう。
…「正常」というものが、「異常」を持たぬことでしか、定義できないような気がする。これが、自分にはなにかの「異常」があるのではないかと、つねに気にかけずにおれない、健康強迫症の構造ではないか。
この構造は、みごとに「いじめの構造」と相同的である。集団のなかで、みんなが「正常」であらねばならぬ。それは、「異常」を探して、「異常」を排除することで、達成される。
たしかに、世間の人がみな「不健康」だと、この社会がまわらないかもしれない。社会を動かしているのが、「健康」な人たちだというのも、ある程度は正しいかもしれない。しかしながら、この社会というものが、「不健康」をも包みこむことで、よく生きているのも事実である。社会が「健康」なひとばかりになったら、それは社会がやせていることでもある。
最近よくアメリカのビジネスにおける会議やグループワークの手法を教室に援用する教育方法を見受けます。そのような方法では、協力や協働、みんなで楽しくということが強調されます。これは確かにノディングスやアロンソンや佐藤の言う協同とは違いますが、それでも理論的な背景をよく知らなければ、同じように見えるかもしれません。それで、現在の協働学習重視の方向性は、一歩間違えると、みんなで一緒に行動しなくてはならない、みんな楽しいのだからあなたも楽しまなくてはならない、という雰囲気になりそうで、そこにいささか違和感を覚えるのです。
そんな時、極端に言えばオタク的な人がみんなの輪から離れて一息ついていたり、一人で何かをしていたり、考え事にふけっていても、無理に輪に戻そうとしないで見守ってあげる(もしくは放っておく)余裕や柔軟性も必要だと思うのです。
空と海と大地とアロンソ
■2018年F1第4戦アゼルバイジャンGP予選結果
Pos./No./Driver/Team/Time/Laps
1/5/S.ベッテル/フェラーリ/1’41.498/19
2/44/L.ハミルトン/メルセデス/1’41.677/21
3/77/V.ボッタス/メルセデス/1’41.837/21
4/3/D.リカルド/レッドブル/1’41.911/20
5/33/M.フェルスタッペン/レッドブル/1’41.994/19
6/7/K.ライコネン/フェラーリ/1’42.490/20
7/31/E.オコン/フォース・インディア/1’42.523/20
8/11/S.ペレス/フォース・インディア/1’42.547/20
9/27/N.ヒュルケンベルグ/ルノー/1’43.066/20
10/55/C.サインツJr./ルノー/1’43.351/20
11/18/L.ストロール/ウイリアムズ/1’43.585/16
12/35/S.シロトキン/ウイリアムズ/1’43.886/17
13/14/F.アロンソ/マクラーレン/1’44.019/16
14/16/C.ルクレール/ザウバー/1’44.074/17
15/20/K.マグヌッセン/ハース/1’44.759/14
16/2/S.バンドーン/マクラーレン/1’44.489/8
17/10/P.ガスリー/トロロッソ/1’44.496/9
18/9/M.エリクソン/ザウバー/1’45.541/10
NC/28/B.ハートレー/トロロッソ/1’57.354/5
RT/8/R.グロージャン/ハース/NoTime/2
[オートスポーツweb ]
ベッテルが3戦連続、53回目のポール。僚友ライコネンはミスのため6位スタート。
上位5台はスーパーソフトでのスタート。ライコネン以下はウルトラソフト。
Q3進出はトップ3にFインディア、ルノーの2台。ウィリアムズが11位と12位。ストロールは昨年表彰台に上がっているので少しは期待したいところですがタイム的には昨年より遅い。(昨年はQ3進出)
ポールタイムも昨年よりは遅くなっていますので、6月後半開催からの影響かもしれません。
ハース、トロ・ロッソはいいとこなし。
SCが出る可能性は高いコースなので荒れた展開になればアロンソが面白そうです。
昨年優勝で前戦でも勝ったリカルドの調子が良さそうですが、注目はベッテルとハミルトンのフロントロー対決。
そろそろハミルトンが勝つ頃のような気がしますので、ハミルトンーベッテルーボッタス、じゃないでしょうか?